「情報は得るものじゃなくて、自分から拾いにいくものやで。」

「…ってまあ、思いっきり他人の受け売りなんやけど 笑。」

スチールバイクを中心に大阪に店を構える自転車ショップ「Bicycle inn Beans」の店主であり、独自のアプローチで新しい自転車の楽しみ方を教えてくれる埼玉秋ヶ瀬の看板イベント「Bikelore(バイクロア)」の企画運営と、2つの顔を器用に行き来する増田さん。これは以前、彼が冗談まじりで教えてくれた言葉だ。

2007-2010年ごろに、世界で爆発的に隆盛を極めたピストバイク(フィクスドバイク)カルチャー。アンダーグラウンドな文化ゆえ、後に賛否両論を生んだものの、その当時ここ日本でも「はじめて自分で買った自転車はピストバイク」という若者が多くいた。この事実からも、この文化がスポーツバイクへの入り口のひとつとして大きな役割を担ったであろうことは想像に難くない。
増田さんはかつて、東京は高円寺という独特の活気があふれる街で、現在と同じ屋号の自転車店 Bean’s(現在はBeans) の店主として、そんな若者たちを近くで見ていた人物の一人。当時を「刺激的な環境だった」と振り返る。

キャリアのスタートと古着屋のお兄ちゃんとピストバイク

かつてEndo doという大阪を拠点にした自転車ショップの東京店という立ち位置で2007年に高円寺でオープンしたBean’sは、オープンからほどなくして、いわゆるママチャリ屋とは少し違って、自転車プロショップとも少し違う、文化系自転車ショップとしてその名を広めた。店主の増田さんはそのかたわら、2011年には友人らと5人でシクロクロスのイベント「Bikelore」を初開催。「大人のじてんしゃ運動会」として、さいたま市の秋ヶ瀬公園で始まったこのイベントは、その後山梨や大阪、愛媛など全国で開催されるようになり、シクロクロスレースを軸にしながらも、大人も子供も自転車に乗る人も乗らない人もアクティブに楽しめるオンリーワンのイベントに育った。2013年にはBean’sが惜しまれながらも閉店することになり、故郷の大阪の別の店舗に戻るこのタイミングで、軌道に乗り始めたイベント運営メンバーからも降りようと考えた。そのことをメンバーに相談したものの、その時にはBikeloreが自分の中でも大きなものになっていたことに気づき、考え直した。そうして関西関東を行き来しながら独自のアプローチでシーンの中で関わり続けていた増田さんが、今度は故郷の大阪で自らの純度100%のお店をオープンしたのだ。
いつでも貪欲に新たな情報を拾いに飛び回っているように見えて、一方で多忙な感じを表に出さない。そんな印象が強い彼は一体どういう形で自転車にのめり込んでいったのだろうか。

-まずは、増田さんが最初にこの世界に入ったきっかけを教えてください。
ここっていうキャリアスタートは2003年かな。Beansの前身となるショップEndo doの2号店として大阪の深井にオープンしたとき。でも実はそれまでにすでに業界に足を踏み入れてはいて。実家が金属加工業だったんだけど、それこそ自転車の泥除けの一部になる小さな部品など、自転車にまつわるパーツを作る仕事の手伝いなんかをしてました。かつて日本の自転車産業は国内で作ったパーツを国内で組み立てて販売する、地産地消の産業だったけど、1980年代後半から1990年代のプラザ合意以降、日本の経済、産業のあり方が大きく変わっていく中で輸入パーツが徐々に台頭してきて。その流れがいよいよ顕著になってきた1990年後半には、日本の自転車関連企業も人件費の安い中国に生産拠点を持つため、中国進出が相次いだ。そんな中、例外なく中国進出するとある自転車企業のヘルプメンバーとして、およそ2週間のスパンで中国と日本を行ったり来たりの生活を3年ほどすることになりました。当時は、中国進出した日本の企業のほとんどは自然と近いエリアに工場を構えることとなり、そのエリアにはある種の「日本人村」みたいなコミュニティが形成され、僕自身もそこで自転車業界のさまざまなひとと関わることになりました。今思えばそこで現在の自転車関係のコネクションの基盤ができたのかなと。当時同じマンションの上に階に住んでいた杉野耕造さんには、ご飯に連れて行ってもらったりとありがたいことに可愛がってもらいました。※スギノエンジニアリング前社長/現サイクリングツアーズジャパン代表

-なるほど。いきなり業界のディープな側面から入られてますね。
その後、部品の生産が中国で加速するということは、一方で日本国内では日本製の部品が中国生産のパーツや完成車にとって代わられるわけで。企業は自分たちの首を絞める状態に。正直わかっていてもそうするしかなかったという面も大きいと思います。そしてこういう流れは自転車だけに関わらず製造業全般にとって影響があった。結果、国内の製造業は淘汰されることに。気がつけば自分の家業も立ち行かなくなり、廃業することになりました。そんなときに大阪で自転車店を一緒にやって行こうと声をかけてくれたのが、前いたEndo doというグループ店の代表の人間ですね。

-今の増田さんが関わられているいろんなことと比べると、少し意外ですね。どこかで大きな転機があるんですか?
やっぱり東京かな。Endo doはオープンから早い段階で、大阪内で2店舗体制になったんですが、3店舗目は東京に店舗を出すことが決まって。

-そのタイミングでいきなり東京っていうのがすごいですね。
そこはやっぱり代表の人間の嗅覚というか。彼は、東京はもちろん海外にも多く出てた人間だったから、「商売やるからには東京でやらなあかんやろ」っていう空気感は会社の中で自然とありましたね。

-当初の商材は今とは違いますよね?
もちろん。大阪でいた時は一般車メインですよ。むしろ20,000円を超える値がつけられた自転車とか正直「誰が買うんやろうな」ぐらいの感覚でした 笑。9,800円の自転車をさらに値切るお母さんたちと奮闘する日々。今でも覚えてるけど、東京のお店任されて間もない時に、20,000円を超える自転車を検討されてる、歳が同じぐらいのお母さんがいらしたんですよ。つい大阪での癖で「(ついてる値段より)安くしますよ。」みたいな接客をしたことがあって。そのときに「値段じゃないのよ」って返された時は、カルチャーショックでしたね。これが東京か、と。

2020年夏に大阪 堺にオープンした、Beans。一般車の修理も対応する「まちの自転車屋」でありながら、大阪で活動する若手フレームビルダーも出入りする、振り幅の広いショップだ。
ブルー×アイボリーの塗装が美しい、ZULLOのフレームセット。日本で実物を観れるのは希少。
ビンテージのCANNONDALEのアルミロードや、アメリカの実用車ブランド WORKMAN BICYCLEなど、ヒネリの効いたセレクトが光る。

-土地柄の違いでしょうか 笑。
でもそれと同時に、東京ではやっぱりこれまでと違うことをやらなければいけないていう思いがあって。それこそ休みを取る気にもならず、高円寺から出ずに2-3ヶ月ぐらいかなぁ…。試行錯誤してました。そんな時だったかな、お客さんの中に700c23cあたりのリムフラップやらチューブやらを10日おきに買いに来るお兄ちゃんがいて。ちょっとシュッとして垢抜けた感じの。

-後から考えればわかりますけど、確かに不自然ですよね。
そう。本来チューブやリムフラップなんてそんな短いスパンで交換必要なものでもないし、そんなマニアックな消耗品、何に使うかもわからないから、気になって聞いてみるわけですよ。そうしたら「自分古着屋なんですけど、実は自転車売ったりもしてて」みたいなことを言い出して。まあ今やったらいろいろ言われそうやけど、その当時は自分も気になる一心で、店終わってその子の店を見に行きました。そしたら店頭にシングルスピードの自転車ばっかり6-7台ぐらい並べてて。

-なるほど。
すぐに何やこれってなって。ピストっていうのはかろうじて知ってたけど、「えっ、競輪の自転車やんね?」というレベル。でも、その子から「増田さん。これです。これやってください。絶対(流れが)きますから。ていうか、もうきてますから。」みたいな熱弁を受けるっていう。一方でやっぱりその当時、自分は本当に店のスタイルを模索してたんです。そんな自分からしたら、それが神の啓示でもあるかのように見えて 笑。もちろん、やっぱりあの見た目のシンプルさ、カッコよさのインパクトも衝撃的で。意を決してピストバイクを取り扱おうとなりました。で、始めるとはいったものの、当時はどこかわかりやすく参考になる店があったわけでもなく、何からやればいいか分からない。とりあえずその古着屋のお兄ちゃんの言われるがままにピストパーツを取り扱うようになりました。それこそレバーの短いブレーキやら、なで肩のトラックハンドルやら、これまではまず仕入れることのなかったものばっかり。パーツメーカーからしても、何のために?って感じでしたね。もちろんそんなものを大量に仕入れてしっかり売れるのかは半信半疑だったけど、自分の中でやるしかないという思いはあったからか、そういう商品入荷情報をメインに、ブログだけは毎日欠かさず書いていて。

東京時代のBean’s

-それはすごいことですね。地道な情報発信って本当に重要だと思います…。
そうすると、最初は数人しかいなかったブログ閲覧者が日に日に伸びていって。SNSもなかったその時代は、みんな情報を得るのに必死だったんやろうね。恐る恐る5,000円を超える値段をつけたハンドルやパーツが、あっという間になくなっていくという、自分でも信じられないような状況が目の前で起こっていました。もちろん全てが手探りだから、このパーツはこれには着けられるけどこれには着けられない!なんでや!とかいうことも当初はたくさんあったりして。でもそれもこれも含め毎日が本当に楽しくて刺激的でした。

-当たり前ですけど、東京にもそんなブーム前夜みたいな時期があったんですね…。そのころ車体とかフレームとかはどういったものを扱っていたんですか?
競輪フレームの中古の持ち込みなんかも多かったけど、新車で勧めていたのはPanasonicとかFUJIとかかな。フレームから組む予算を持ってる子はパナソニックのPOSとか、低予算でもしっかりしたものを乗りいという子にはフジトラとか。当時はシングルバイクなら何でもいいというわけでもなくて、やっぱり競輪用NJSのフレームやパーツにみんなが憧れていて、何せ競輪カルチャーとの関連付けが暗黙のルールであったと思います。フルNJSで組むのとかが正義みたいな時代。

FUJIのFeatherは、東京のショップ時代から継続して扱うクロモリシングルスピードの定番

自分たちから「やりたい」で始めたことだから、デメリットはあまりないかな。楽しくやらせてもらってます。

-なるほど。そこからはまさにフィクスドが一時代を築きました。そんな中でシクロクロスのイベント Bikelore を主催するに至ったきっかけは何ですか?
2010年に初開催された「ラファスーパークロス野辺山」ですね。店に出入りしていたメッセンジャーやお客さんたちとこの初回開催に遊びにいって。まず「なんてオシャレなんやろう」って衝撃を受けました 笑。その当時、シクロクロスレースのイベントであれほど世界観を作り込まれていたイベントは他にはなかったんじゃないかな。こんなイベントを自分たちもやりたいな、ってすぐになりました。

記念すべき第1回目 Bikelore のゼッケンプレート。
進展に飾られた屋号の頭文字がプリントされたTシャツは、自転車とも関わりの深いアパレルブランド、ポールスミスのスタッフたちからの開店祝い。

-ちなみに、そのイベントに行くきっかけって何だったんですか?
この時も含めて、自分も周りも常に刺激に貪欲ではあったかも。次は何が面白いか、みたいな事には常にアンテナを張ってたというか。例えばフィクスドって、一つの流行であったことは事実だけど、そもそものスポーツバイク人口を広げた功績は大きいと思っていて。昨日までママチャリを乗っていた若者がピストに乗って、そのまま元どおりになるわけじゃなくて、ロードに流れる人もいればBMXに行く人も、マウンテンバイクに行く人だっている。自分もピストはもちろんだけど、それ以外の海外の自転車のトレンドも常にチェックはしていたし。そんな中、いろんなことが重なってピストからシクロクロスにも興味が湧いてきていた時期、ていう感じかな。

-当時、変わらず店を任されていたわけですが、その二足の草鞋スタイルはどこからモチベーションが?
結構いろんな人からそれ言われるけど、あまり自分でそういう意識はないのよね…。イベントなんかはそれこそ最初の方は収支バランス取ることに必死だったし。でもやっぱり周りからの刺激はすごく大きいと思います。「東京」という日本の中でも飛びぬけて刺激の多い場所で店をやってると、波長が合う人間は自ずと繋がることになっていったし、あの街ではそういう人たちと物事を動かすと一人じゃできなかったことも実現ができてしまう。週末人集めてなんかやろうかってなったら、小さいことでも皆すぐ行動にうつしていた。逆に一時期大阪に帰ってきたときに同じような企画事があっても、進まないどころか足引っ張り合うような感じがあって…。そういうことって、もちろん大阪だけじゃなくて他のエリアでも起こりうると思うんやけど、東京は本当に互いが刺激しあって物事が動く感じがあった。「増田さん、前言ってたあの件、もう動いてますよ。」って言われると、そうかじゃあ自分もやらないと、ってなるもんね 笑。

-ちなみに掛け持ちでやることで良かったこと悪かったこととかってありますか?
基本的に全部楽しいですよ。もちろんその日のうちに資料を完成させないといけないとか物理的に締め切りある事はシンプルににつらいけど 笑。Bikeloreは5人ていう複数人でやってるけど、不思議とつらいって時はあんまり無いかも。企画内容を考えててディスカッションする事はあっても、揉めた事は無いですしね。もちろんメンバーはBikeloreとは違う生活もあるからそれぞれに「つらい時期」みたいなものは個人個人ではあると思う。1度それが重なった時があって。「なんかもういいか。もうめんどくさなってきたな」みたいな流れに任せる空気になってしまった。でも「もしBikeloreなかったら自分たちって楽しくやっていけるんか」って投げかけたら、皆それ以上はなかった。Bikeloreは今やメンバーにとっても「糧」になってるじゃないけど、何よりの楽しみの1つであって。結局自分たちから「やりたい」で始めたことだから、デメリットはあまりないかな。楽しくやらせてもらってます。

シリアスな自転車レースとは一味違い、毎回ピースフルな空気感が会場を覆う。
バイクロアの名物となっている、オウルクラス(仮装レース)の様子。ほとんど手作りで衣装を作る強者が揃う。

-やったことによる変化ってありましたか?
複数回やってるうちに徐々に芽生えてきた感覚としては、人と人とをつなげて輪を広げていく…。みたいなことが自分でも面白くなってきたというか。正直自分は何者でもないけど、そんな自分も勘違いしてしまうぐらい、友達と友達とをつなげて何かが起こっていることを見るのが面白くなってきた。店をやってるだけでももちろんでもそうなんだけど、イベントとかやってるとさらに多くの人と同時に関わるから、自分が紹介した人同士がつながって後から「増田さんにつなげてもらったおかげですよ」とか言われると、自分がそのことをあまり覚えてなくても悪い気しないもんね 笑。何より自分自身も、杉野さんであったり古着屋のお兄ちゃんであったり、間違いなくいろんな人につなげてもらった恩があるし。

-その当時ってイベント感をお店であまり出さないようにしてましたよね?
今でも自分も積極的に表に出る意識はないけど、特にイベントが軌道に乗るまでの初期は正直かなり意識してましたね。店でバイクロア感はできるだけ出さないようにしていました。自転車イベントやから自転車屋が裏から糸引いてやっているということってなんかビジネス感が強いし、興醒めしてしまうんじゃないかな?自分たちも自転車屋やってるからこのイベントをやってるわけではないしね。だからイベント自体をそう言う先入観で見られたくなかったと言うか。なので、今メンバーの中でリーダーやってもらってる人間の本職は「手焼きせんべい屋さん」やで。

-なるほど 笑。今や秋ヶ瀬だけじゃなくて全国いろんな場所で開催されているようですが、そこでも意識されていることってありますか?
ありがたいことですよね。いろんなところからお声かけていただいてるんですけど、やっぱり次々新しいことをっていうことは意識してますね。もちろん場所によって客層が違うっていうのもあるけど、やっぱり人間誰しも飽きは絶対来るし、なんなら今もバイクロアに飽きてるお客様も一定数絶対いると思ってる。東京のお店をたたむことになったのも、自分たちがお客様にフィクスドの次を提案できてなかったからというのはすごく感じてて。それは身を以て実感しただけに同じことはしたくないですね。
商売でも三方よしってよくいうけど、例えばイベントだと、僕たち運営側、協賛していただく企業や自治体の方、そしてお客様。やっぱりそれぞれの目線を意識して、関わるみんながそれぞれ継続的にいいと思ってもらえないことには、こういうことって続かないじゃないですか。

ブレない軸をしっかり置きながらも、常に遊び心を忘れない。

増田さん含め、仲間たちの人柄がそのまま投影されている唯一無二の自転車イベント、Bikelore。次回は、コロナ禍におけるアプローチ、増田さんに影響を与えた出来事や人物などに触れる。

増田拓己 (Takumi Masuda / Bicycle inn Beans)

大阪府生まれ。家業の金属加工業を95年頃に継ぎ、2000年からは中国と日本とを工場指導のため頻繁に行き来する。2003年、大阪堺で自転車店を展開する友人に誘われ自転車業界に。
その後、店舗展開に伴い東京店であるBean’sの店主を任されることになる。店を切り盛りするかたわら、シクロクロスレースのイベント『BIKELORE』の企画運営を友人ら5人で開始。埼玉の秋ヶ瀬公園から始まった同イベントは今や全国で開催されるようになり、派生したイベントも合わせると現在は通算で20回を超える名物イベントに育っている。2020年夏からは在籍していた店舗の跡地、大阪堺で『Bicycle inn BEANS』をオープンしたばかり。