ニューヨーク。世界の中で経済、文化、交通、娯楽などのあらゆる分野において中心的な都市の一つであり、様々な人種とカルチャーが混ざり合う、文字通りの大都会。今からおよそ20年前に、この街が放つエネルギッシュな空気感の虜になったひとりの日本人の若者がその後、ある自転車ショップをオープンした。

後藤さんは、2008年30歳で自転車ショップ 「CHARI & CO」 をニューヨークにオープン。日本製のクロモリトラックフレームが店内を埋め尽くし、他の自転車ショップと比べても明らかに違った空気を放っていた同店は、やがてショップオリジナルのアパレルを展開するや否や、現地の自転車業界のみならずストリートファッションシーンを賑わせることになる。
そして現在、CHARI & COは単なるショップではなく、日本の数々のセレクトショップでも取扱いされる立派な「ブランド」となった。ここ日本でも、自転車好きのみならず、ファッション好きも一度は耳にしたことがある人も多いだろう。

しかし、そもそも日本で産まれ育ってきた後藤さんが、一体どのような経緯でニューヨークにショップをオープンすることになったのだろうか。

ニューヨークという街との出会いと、第一印象

-まず最初に伺いたいのは、後藤さんとニューヨークの出会いから。最初に訪れたのはいつ頃なんですか?
2002年の2月に、日本でそれまで働いていた会社が潰れしまったんです。せっかく時間もできたし「海外旅行にでも行こう」ってなった時に、唯一現地に知人がいたっていうのと、当時はちょうど9.11事件から間もない頃で、チケットもすごく安くで手に入ったっていうのもあって。

-旅行として、ですか?
そうですね、ほぼ思いつきです。最初は、1ヶ月ぐらいの滞在をイメージして、チケット取って行きました。向こうでは知人である大学の頃の先輩の家に泊めてもらって。

-旅行としては少し長めの滞在ですね。何か目的があったんですか?
元々スニーカーが大好きだったのもあって、向こうに行けば日本には展開されていないスニーカーもたくさんあるし、滞在の1ヶ月の中でスニーカーを色々買い付けたりしてて。で、もちろんそれはそれで楽しかったんですけど、いざ日本に帰っても、あの「空気感」がやっぱり忘れられないというか。当時のあの街の全てが、すごいカッコ良かったんですよね。

初渡米時の写真。緑のジャケットを着ているのが後藤さん

-そう言う空気感って言葉ではなんとも表現し難いですよね。
気がつけば「やっぱり、住まなければいけない」みたいに思っちゃってました。そう思ってからは、日本に帰国してラーメン屋やら車の部品工場やら、とにかくアルバイトで働きまくって、半年間弱ぐらいですかね…。150万ぐらい貯めて学生ビザとって。

-行動力ですねー。ちなみにその時っておいくつぐらいなんですか?
えーっと…25歳ですかね。で念願のビザも降りて、やっと行ける状態だ!って時に、それまでに当時付き合ってた彼女にお金貸しちゃって…直前で残り30万ぐらいになっちゃうっていう。

-そんなことあるんですか 笑。
結局30万だけ握り締めて2002年11月に行きました。

-再渡米前から、かなりの想定外だったわけですね。
そうですね。で、向こう着いたらとりあえず知り合いのツテをたどって一番安そうな家を探して…。結局ブルックリンの南の方で5人ぐらいシェアしているところの廊下みたいなところに住むことになりました。しかも床がかなり斜めで。

-廊下…ですか?
家賃が230ドルぐらいだったんですよ。とりあえずお金なかったんで、住人たちが行き交うパブリックなスペースです。

-環境が環境なので家賃として高いのか安いのかも判断しにくい… 笑。その後は?
一ヶ月でお金が底を尽きちゃったので、クリスマスの前には日本人街の焼き鳥屋でバイトしましたね。で、そこで貯めたお金でまたスニーカー買い付けて。っていう生活をしてました。

-そこはやっぱりスニーカーだったんですね。ちなみに素朴な疑問なんですけど、当時から英語はバッチリ喋れたんですか?
一応大学は英語学科出てるんですけど…全く喋れない状態で渡米しましたね。最初の焼き鳥屋の面接でも「英語喋れますか」って当然聞かれるんですけど、やっぱり食べていかないとダメなんで、「喋れます」って行って無理やりクリアして。

-かなりの荒技ですね。実際のお仕事の中では困らなかったんですか?
仕事内容はホールだったんでこれもやっぱりうまくいかなくて。で、先輩に聞くと「中学英語で十分だ」って言うことを教えてくれたので、どうにか形にはしようと頑張ってました。でもやっぱりネイティブって聞き取りすらも難しいじゃないですか?客はアメリカンジョークもいっぱい言うし。なので、注文聞くにもやっぱり難しくて…。lemon(レモン)をramen(ラーメン)と聴き間違えたり、sake(日本酒)をasahi(アサヒビール)と間違えたり…。

バイト仲間のメキシコ人たちとは仕事終わりに朝まで街に繰り出し、また働くのが日常だった

-そもそもramenがメニューにあるんですね。
注文を聴き間違えて料理出しちゃった場合、その費用を本人が給料から天引きされるシステムのお店だったので、オーダーを間違えてはキッチンの人に怒られて、給料からもきっちり差し引かれて、というなかなか厳しいスタートでした。

-なるほど。後藤さんがそんなに生命力溢れる人というのは意外でした。
正直、英語は覚えざるを得なかった面は大きいですが、そこからは参考書買って、なんだかんだそこから1年ぐらいは自分なりにも必死に勉強はしたかな…と。参考書の1フレーズを覚えてその日のレストランの接客で何回も使って習得しました。

-でもそういう一連の行動の動機って、やっぱり「意地でもニューヨークにいたかったから」なんですか?
生きていくために、食べていくためにひたすら必死でした。でも、20代の若い時だったっていうのもあって、今思えば全部の行動自体が楽しくて続けていたのかなって。例えばスニーカーの買い付けでも、やっぱりアメリカなんでショップのスタッフにもいろんな人種がいるんですよね。でも交渉やコミュニケーションには人種とかは関係ないので、時間をかけて信頼関係を築いていって…ていうことも楽しかったし。そもそも欲しいスニーカーを求めて、ショップをリサーチして、レンタカーを借りてドライブして、土地勘つけて、ていうことを一人でやるってことも楽しかったし。

-なるほど。
あと、大量のスニーカーを買うにも当時はやっぱり現金だったんですけど、中には治安の良くないエリアに出向くことも結構あったんですよ。両ポケットに大金入れてそのエリアを歩いているだけでも相当危険なぐらいの。でも、ショップのスタッフもそう言う環境を理解しているので、例えば店で靴を大量に買って、外に出て車に乗るまでは、そのスタッフが自分のセキュリティになってくれたりするんです。そしてその後シェイクハンドして、チップを手の中で渡して…「またいいのが入ったらよろしく」みたいな。「生きる術」を学んでいるじゃないですけど…言葉は喋れなかったけど、そういうスキンシップだとか、単純な言語とはまた違うコミュニケーションを学ぶことが自分にとって最大の刺激だったし、その後にも活きてくる学びだったのかなって思います。

-リアルなコミュニケーションは「街」から学んだ的な。実際はなかなかサバイバルな感じなんでしょうけど、すごく夢のある話です。ちなみに最初に買ったスニーカーとか覚えてますか?
スニーカーのバイイングでお金貯めようって決めてから、最初に買ったのはアディダスULTRA STARのJAM MASTER J(RUN DMC)追悼モデルです。

-割としっかり覚えられてるんですね。もしかしてRUN DMCに対しても何か思い入れが?
大学時代によくビースティーとRUN DMCを聴いていたのでふわっとアメリカの音楽ってかっこいいな、そのスニーカーが出るんだ。みたいな思い出があります。

スニーカーヘッズが自転車のショップをオープンするまで

-当時、その生活で目指す目標って何かあったんですか?
目標としては、ばっくりとですが、30歳になるまでに10万ドル貯めたいなと。そのあとは日本に帰ってスニーカーショップでもやろうかと思ってました。なので、焼き鳥のバイトは一年半ほどでやめて、スニーカーのバイイングだけで目標額の預貯金を貯めて、30歳を迎えたんです。

-それはそれですごいですね。スニーカーの「目利き」みたいなものはもともと備わってたものですか?
もちろん事前に調べたりはしてましたよ。例えばそれが国外でも流通しているモデルなのかどうかとか。当時はスマートフォンも普及してなかったので、まず一回下見に行って、そこで即決せずに家に帰ってPCでいろいろ調べて…もちろんgoogleマップもないので、紙の地図にチェックいれて、みたいな。

-時代を感じます。
で、目標額も達成して、自分としても憧れだったニューヨークにも5-6年は住んだわけだし、さあ日本帰ろうかなと思っていたんですけど、ちょうどその時ぐらいには自転車、中でもピストバイクが大きなムーブメントになってて。

-なるほど。確かに2008年ぐらいだとちょうどピークですよね。
ピストクルーMASHのフィルムのプレミアもNYCであったりとか、ブームの前夜って感じの…。スケーターたちもみんなこぞってピストバイクに乗っていました。やっぱり自分も自転車買って友達周りで一緒に乗ったり、遠出っぽいことをしたりとか。

-ちなみに後藤さんが初めて買った自転車はどういう自転車だったんでしょうか。
初めて買った自転車はFUJIのシングルスピードです。周りには一台目でゴリゴリのカーボンバイクをいきなり買う人も居たし、まちまちでしたが、当時は自分がここまで深入りすることをイメージできていなかったのもあって、最初はシンプルかつリーズナブルでなもので探していていました。ふらっと入った1st Ave & 14th streetの自転車屋で完成車で600ドルぐらいのものを見つけて…勢いで買いました。

-FUJIですか。そこにも日本人のアイデンティティがあったりとか?
いや、そこはあまりなかったかも 笑。単純に「リーズナブルだけど、しっかりしている」っていう自分の要望に合致したっていうのはありました。

初めて購入したFUJIの自転車と。前後異色のディープリムなど、黎明期を匂わせるカスタムが懐かしい。

-そんな後藤さんが、いつの間にか自ら自転車ショップをオープンするまでに至るわけですね。
そうですね。ただ、もちろんきっかけみたいなものはあって。

-どんなきっかけだったんでしょう?
例えば当時TRACKSTARていう雰囲気のいいショップがあったんですけど、そう言うアンテナショップ的なところに出入りしてても、日本のパーツがかなり少なかった印象だったんですよね。当時は「競輪」ブームでNJSパーツ至上主義みたいな時代だったにも関わらずネットの情報も少ない時代で、やっぱりアメリカからするとそれって国外のマニアックなパーツになるので、入手はやはりハードルが高かったんだろうと思うんです。そんな中で、日本人である自分には何かできるところがあるんじゃないか、とか考えたりしてました。あとはやっぱり、単純にいいサービスのショップがなかったんですよね。当時の現地の自転車ショップといえば、いわゆる「古き良き」というか一見さんお断りの専門性の高いショップがほとんどで。そういうのもあって「日曜や月曜もしっかりオープンしてて、サービスのいい、日本のパーツを仕入れたショップをやってはどうかな」っていう考えに至りました。 

-なるほど。
前述の通り、目標貯金額も達成して、ビザも切れるところで、日本帰ってもいいし、逆にもう一発挑戦してもいいかなという思いもあって。30歳という節目でもあったし、最後に失敗してもまあまだ大丈夫か、みたいな 笑。

そこから同年の2008年にはオープンされているわけですよね。オープンまでは結構スムーズだったんですか?
そうですね。もちろん物件探したりはマンハッタンの各ブロックを順番に見ていきながらも、タイミングよく良い物件が見つかったっていう感じです。ロウワーイーストサイドの家賃が比較的安いところでありながら、ウィリアムバーグブリッジの通勤者が通りやすい場所。あとは、それまでのスニーカーのバイイングで、仕入れの要領や現地ストリートでのコネクションはある程度自信があり、土地勘のイメージできたことも大きかったと思います。

オープン当時の写真。独自のコネクションもあり、NYの著名ストリートブランドのショップスタッフやディレクターなど界隈の重要人物も多く訪れた。

-オープン時の苦労話とかはありますか?
タイミングよく物件がみつかったのもあって、ビザが切れるタイミングでありながら会社を立ち上げたのですが、それらを法律上クリーンな会社として維持するには、オープンしたその年中に新たなビザを取得したうえで確定申告を行う必要があったんですよ。

-後から調整していくのはややこしそうですね…。それって「理解はしてたけど、いい物件が見つかった勢いが優先して」みたいな感じだったんですか?
理解はしてたけど…ではなくて、完全に「理解していなかった」方です 笑。正直なところ、社会的に必要な申請や手続き、店を経営する上での初歩的な会計のことなども、なんとなくでしか理解してないのに店舗契約してオープンしてしまって。そこから弁護士にも相談して、アメリカの資金を一度日本に送って親から再度アメリカに入金してもらい日本からの出資でビジネスを始めるように資料を作り…更にリーマンショックだったんで雇用を作るんだと強調してなんとかビザ審査を無事通りましたが、あれは本当に苦労しました。

-…かなり、行動が先に行くタイプなんですね 笑。
あとはパーツ等の買い付けのルートなんかも、最初から安定したものがあったわけではなく、地方のフリマや古い自転車ショップの倉庫に眠っているビンテージのフレームやパーツを現金で買い付けてきたり、いわゆる自転車ショップのそれとは少し違うルートだったと思います。

-確かにちょっと力業的と言うか…なかなかアナログな仕入れルート。
もちろん、だからこそ他の店に並ばないようなヴィンテージパーツなどを仕入れできていたし、ブームの追い風もあって1日に完成車だけで4台も5台も売れていくしで、店自体はものすごく繁盛したんですけどね。その反面、初めてでわからないことだらけの中での勉強や、運営的な側面でその辺りを後から整えていく作業が全て重なったので、初年度は本当に大変でしたね。特にビザを取得するまでの手続きなどは本当に苦労しました。今でこそブランドのストーリーとして笑い話の一つとして話せますけど。

-なるほど…。ちなみにオープン初期の良かった思い出話とかありますか?
いろいろな思い出はありますが、当時シルバーカラーしかなかったSRAMのOMNIUMクランクを、史上初のカラー別注でブラックを作ったことです。何年後かにブラックカラーは通常ラインナップにも加わってるんだと思うんですけど、実は作ったのはCHARI & COがきっかけなんです。

-そうなんですね!逆にブラックがスタンダードだ、ぐらいに思ってました 笑。かなりの数量の発注が条件だったんでは?
何個ぐらいだったんですかね….200個ぐらいとかだったかな。勝負かけようって、有り金全部をつぎ込んでと言う感じでした。でも当時は世界初のカラー別注ということで、それこそ日本や海外の自転車やからも問い合わせを受けたり、すごい勢いで引き合いがあってその在庫もなくなっていきました。

-すごいですね。自転車ショップでもアパレルショップでも、いち小売店がその数のクランクはなかなか捌けないですよね…。
今でこそ、元々僕たちが自転車ショップが背景にあるブランドだというのは意外と知らない方も多いとは思いますが、やっぱり自分たちにとっては大事なルーツです。

当時はシルバーカラーしか展開されてなかったシングル用クランクの定番SRAMのOMNIUMを、ブラックで別注。ちなみにクランクをもつ彼は、本文中にも名前の上がっていた伝説的なピストクルー「MASH」の看板ライダー、マサン。
オープン1周年記念として製作された湯呑み。NYのストリートブランドをはじめとして、日本でも馴染みのあるブランドのネームが埋め尽くされており、自転車ショップでありながら、独自性の高いコミュニティを物語っている。
NY店舗初期の店内の様子

自転車屋はちゃんとローカルの自転車チームを持ってレースに参加する

-ブランド名もそうですが、一種のキャッチーさを感じさせる一方で、オープン当時からレース活動をストイックにサポートされているイメージもありました。
そうですね。僕らがショップを始めた年がちょうど近くのエリアでRed Hook Crit※が始まった年っていうのもありますが、やはり向こうでは「自転車屋はちゃんとローカルの自転車チームを持ってレースに参加する」っていうのがステータスでもあり、自分にとって大事なところでもあったので…。ある種、必然的というか、そういう土壌だった的なところというか。
※2008年ニューヨーク ブルックリン レッドフック地区で始まったノーブレーキ固定ギアピストレース。当時は道路の使用申請などもされていなかったそうで、イリーガルなレースでありながら、その界隈では初回から大きな話題となった。2019は規模拡大に伴う予算が得られなかったこともあり、止むを得ず開催を中止し現在に至っている。

自転車ショップとしてチームを持ち、レースに参加することも後藤さんにとっては非常に重要な位置づけ。
また、サイクルウエアで定評のある le coq sportif をはじめとし、ウエアブランドと協働でチームジャージを幾度も製作。実力はもちろん、ビジュアルにまでこだわるところもCHARI & COならでは。
Photo : Ryo Kubota
Photo : Ryo Kubota
Photo : Ryo Kubota
Photo : Ryo Kubota

-Red Hook Critに参加しているのはプロチームも多いですよね?
今は大手のスポンサーがついたり、いわゆるシリーズ化されて世界各地で転戦されるまでになったものの、最初の数年は、口コミで集まったアマチュアのチーム、ライダーがほとんどでした。ちなみに、ブルックリンの開催分で言うと、初回開催からずっと参加し続けたチームはCHARI & COだけだったみたいです。

-そうなんですね!やっぱり初期は雰囲気が違いましたか?
夜になって静まったブルックリンのIKEAの倉庫の前の広い道に、口コミで集まったライダーたちがひたすらコースを周回するっていう、その時点で既にアンダーグラウンドな香りがぷんぷんするイベントだったんですけど、やっぱりレース自体もすごくエキサイティングで。路面は石畳で凸凹なんでパンクは頻発するし、コースは公道でありながら事前申請出されていないものだったので、路線バスとかもガンガン突っ込んでくるし。でも観客も興奮してるんで、みんなでそのバスを止めに行ったりとか 笑。

-過激ですね 笑。
もちろん、バスの運転手もそんな若者たちの言うことなんか聞いてくれないんですけど。何かもう、全体的にぐちゃぐちゃなんですけど、そういう一体感とかも含めて、第一回目ですっごい盛り上がりを見せて。そのとき、うちのチームは元ZooYorkのMike Hernandezから紹介してもらった John ‘K-Tel’ Knieslyっていうライダーに、ジャージを来て走ってもらって。今やうちのベテランライダーであり、米国SRAM社の社員なんですけど、彼がそういうハードな環境下のレースでも2位と言う好成績を納めてくれてたのもあって、チームにとってもすごく意義のあるレースだったと思います。

第1回の Red Hook Crit の様子。
CHARI & COの看板ライダー John ‘K-Tel’ Kniesly
石畳でパンクしてしまった選手
チープな表彰台から、初期Red Hook CritのDIY感が伝わってくる。左から2人目がK-Tel選手

-Red Hook Critはどんどん規模が大きくなっていきましたよね。
そうですね。きちんと警察に届け出して、クローズドのレースになって、夜中にやるストリートのクリットっていうのが徐々にまかり通るようになってきて。K-Telはその後も好成績を収めていたんですけど、ただ、規模が大きくなるにつれてイベント自体に大きなスポンサーもついて、賞金なんかも出だして。やがてセミプロやプロも参戦してきて…そうなってくると、やっぱりプロはレベルが違うと言うか。気がつけば最初のアングラさやローカルレース感は無くなっていって、そう言う意味での面白味は無くなっていった印象も、一方ではありますね。

-その手のイベントは難しいですよね。僕たちが日本で耳にした時はすでにそういう時期になってたのかもしれません。
でもその他にも当時はいろんな文化があって。ブルックリンでは、トリックを競う「peel sessions」っていうカルチャーとかもありましたね。雨の日でもできるという理由で、毎週水曜だったかな?BQE(Brooklyn Queens Express)っていう高速道路の高架下で集まって盛り上がっていました。他にもスキッドを競い会うイベントなんかもあったり。とにかく「ピストバイクでいかに遊ぶか」って感じで、他にもいろんなイベントが周囲で盛り上がっていました。

-ちなみに、後藤さんもレースに出られたりするんですか?
めちゃくちゃ初期ですね。2008年とか2009年ぐらいの、夜中にやるような、身内な雰囲気のイベントやレースには出てたりとかもしてました。後は仲間内で集まってセントラルパークで毎日一時間ぐらい走ったりとか。

チームCHARI & COのメンバーと。

-それもレース形式ですか?
レース…ではないんですけど、なんかそこで一周 / 16分台のタイムを出すと、「あるメーカーのプロチームに入れる権利がゲットできる」とか、よくわからない噂があったりもして。なのである程度タイムを意識しながら、楽しく走って…みたいな感じです。でみんなでコリアンタウンで飯食って帰る、みたいな。

-なるほど。
一番楽しい時間ですよね。

-そうやって聞いていると、ショップをオープンしてさらに自転車にのめり込んだ部分も多そうですね。
そうかもしれません。

-ピストバイクはほぼタイムラグなく日本にもブームがあったのですが、一部のユーザーに対する安全性の指摘などもあって、その後急速に収束していったと言われています。でも、道路交通法等の文化が違うアメリカでも、ブームの収束はありましたよね?
ありましたね。やはりあのスタイルが一種の「ファッション」として流行してしまったという面が大きかったと思います。ユーザーに対する世間からの印象なんかは、日本とまったく同じ状況ではないとは思いますが、着るものに一過性の流行があるのと同じように、ピストバイク自体が流行りのスタイルとしてもてはやされていたのかなと。

-なるほど。
あとは、やっぱり自転車に乗り出すとスピードを求めるんですよね。Kissena Velodromeっていうトラックがニューヨークにあるんですけど、そこでレースをしたりとか。ピストで始まって、ロードに行ってシクロに行って…みたいな流れですかね。その辺も日本もほぼ同じような流れだと思うんですけど。

-確かに、わかる気がします。
でも今また若い子たちが注目してますよね。もう10年以上も前の「あの時の」カッコよさを求めて、また新たな世代が乗っている。自分の周りでも何人か面白い子も知ってるんですけど…東京から1日200kmぐらい、ひたすら西へ走り続けていった子とか。

-キャノンボールですね。まさか固定でですか?
固定で、ガッツリ荷物積んで。結局フェリーなんかも乗ったりで鹿児島まで行ったって言ってたかな、パンクして終了みたいな。そういうのを聞いてると、やっぱりピストはピストで、乗る人間も含めて面白い文化だなって。

次回はCHARI & COがひとつの「自転車ショップ」から「ブランド」としての地位を確立するまでや、後藤さん個人のこれからの展望について触れる。後編はこちらから。

後藤雄貴 (Yuki Goto / CHARI & CO)

2002 年渡米、ニューヨークで2008 年より10 年以上に渡り自転車屋「CHARI&CO NYC」 を経営。自身の自転車チームを結成しREDHOOK CRITやREDBULL MINIDROME RACE などに出場させる。自転車屋経営の傍ら、NY の自転車文化を背景とする自身のブランドCHARI&CO(ショップ名と同名)をディレクションし、これまでにカシオ G-shock, New Balance, Porter, Mountain Dew,Le Coc Sportif, Tenga, Gregory ブリヂストンなどと協業を果たしてきた。また現代アーティストとのコレクションも多数手がけ、これまでにMeguru Yamaguchi, Kyne, Stash, Yoon Hyup, Rostarr などとの協業も果たしている。自転車関連ではSRAM Omnium Crank Set のブラックを世界で初めて色別注するなど、自転車の可能性を求めながら、ニューヨークならではのファッションやストリートカルチャーの知見を広げてきた。2020 年初頭より日本に帰国。